ツギトリは、実際的な出版流通を見据えつつ、突飛で無責任なご提案を繰り広げる、正体不明、謎の秘密結社です。
このたび、しめやかに爆誕いたしました。今後の活動にご期待ください!
終了しました。ご来場ありがとうございました。
深刻な出版不況と反比例するかのように高まる「本」への関心と幻想。町の新刊書店が消えていき、出版社が倒産し、総合取次の破綻が連続する中で、個人で書店の開業を希望する人が増えたり、民間の指定管理者による次世代の図書館が盛んに議論されたりしています。
一方、時代遅れ、とインターネットを中心とした新しい情報技術の対極として取り上げられやすく、やたらと非難の対象にさらされたりするのも出版業界です。
新美南吉「おじいさんのランプ」で、電灯の出現によりランプ商に見切りをつけたおじいさんが次に選んだのは、本屋でした。作中の最後、おじいさんは孫に「自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。」と語ります。今頃、孫の東一君が継いだかもしれない本屋さんはどうなっているのでしょうか。
本をめぐる環境は複雑です。新刊書店の流通に限っても、他業種に比べ独自性が強いといえるでしょう。更に、古書店や図書館など二次流通も多様です。電子書籍もあれば、漫画喫茶もあります。最近は、売ってはいるけれど店内でゆっくり読むことができ、まるで売れなくてもいいような本、なんていうものまでありますね。まちライブラリーは、本を軸に地域の活動を(飲食店併設の場合はその売上も)促進しますが、寄贈された本(植本!)を無料で貸出すことは、本の著者や出版社にはどのような促進をもたらすのでしょうか。そもそも合法なんでしょうか。
今回のシンポジウムでは、業界に詳しいゲストを招き、基本的な状況を整理した後、参加者と自由に意見を交わしたく思います。本に関わる方や本が好きな方は勿論、もう本なんか読まなくなったなんて方もお気軽にお越し下さいませ。聞くだけの参加も歓迎です。
書肆汽水域のご協力により、当シンポジウムにはISBN(国際標準図書番号)が割り振られています。図書の定義に目を瞑れば、当シンポジウム自体が書籍となります。
しかし、それだけならば言葉遊び、当日はシンポジウムを即、紙の本にて出版致します。リアルタイムでパネリスト及びスタッフがシンポジウムの様子を記録、または、それに留まらず意見などを「執筆」します。そしてシンポジウム終了後にその場で印刷、製本。
執筆の様子はプロジェクターで投影されます。ご参加の方もお手持ちの端末でメールを利用し(予定)執筆に参加できます。本格的に執筆に参入を目論む方は、どうぞノートPCや外部キーボードなど入力しやすい端末をご用意くださいませ。
出来上がりは混沌としたものになると想像されますが、それもまた云々。ブックファンタジーを、この場で実践してみましょう。果たして無事成就するか、お立ち会い下さいませ。
浜の真砂は尽きるとも話題は云々、シンポジウムは定刻で切り上げて、席を崩して、後はゆるやかに飲物でも飲みながら。最初の一杯くらいはご用意します。後は実費にて。ご参加自体は無料ですので、後はご自由に。
以下は当日進行役の山本による私見・メモです。
国内の新刊書店に流通する出版物の殆どは再販売価格維持制度、通称再販制に従って出版社の指定した定価で販売されている。また、その多くが配本による委託販売のため、満額にて返品が可能となっている(請求より相殺)。そのため流通業者にとって本は、額面が明記された紙幣そのものに他ならない。
チェーン書店の中には、本部が毎月の売上目標金額を設定する他、返品目標金額を設定することもある。書店にとって返品は、売れ残った本を新しい商品と差し替えるだけのものではない。時には積極的に返品をして、本を円に両替する必要がある。出版社は逆に、押し寄せる返品を受け入れるため、新たに本を濫造する。
本屋にとって売上とは利子にも似る。円を銀行に預けるのも良いが、本に替えて軒先に並べておけば、利益をもたらす可能性がでてくる。世間ではそれを通常「売上」と呼ぶが、その薄い利幅と捌け方を考えると「利子」という言葉の方が相応しいかもしれない。
本が紙幣の如き性質を持つことで、全国へ流通し、それがそのまま文化の多様性を担保する。もしそれが一般的な商材(店側の注文無しには入荷せず、時間の経過によって販売価格が下落し、返品処理が難しいような)であれば、書店は売筋を仕入れるに留まり、店頭に豊富な在庫は無く、人と本が出会う機会は著しく低くなるだろう。
一方、電子書籍は本の非紙幣化も意味し、再販制にも、在庫や返品にも囚われない。そも貨幣のアナロジーから逃れた新しい方法で、「紙の良さ」等の情緒さえ除けば理想的にも思える。しかし貨幣でなければ金融機能が働かない。例えば著者への印税は通常、文字通り印刷部数に伴って発生するが、電子書籍は実売が基準となるため、著者はまとまった報酬を得にくい。部数には、やがて返品されるであろうが売り逃しが無いため必要でもある少なく見ても平均約3割、が含まれている。この分は、本を紙幣とみなすことで、全国の書店と、新刊を出し続ける出版社と、支払いを調整する取次が織り成す金融機能によって賄われている。
紙幣は、ともすればただの紙切れとなる危険を負っている。本の場合、出版社が倒産し、返品がする先が無くなると店頭に残った本は重い紙束となる(勿論、継続して販売は可能だが、倒産するような出版社の本が景気良く売れるかは難しい)。
本はこれからも紙幣の姿を取り続けるのか、電子書籍に限らず別の形態を模索するのか。ともあれ、全国に流通する紙幣を「よいしょ」の一言で別形態に移行することは容易ではない。我々はまだしばらくの間、本に対して、例えば「真理が我らを自由にする」といった文化的な知的資本として聖なる役割を期待しつつ、札束を数えるように振る舞わなければならない。
上述の箇条書きは、僕が本シンポジウムの開催に辺り、企画書の末尾に記したメモです。中には同列に扱うべきでないものも混ざっているかと思いますが、先に思い浮かんでしまった言葉「ブックファンタジー」から連想するものをひたすらに書き並べました。
企画者として補足しておくと、上述の通り「ブックファンタジー」とは「売れていないからファンタジー」という意味ではありません。本の「何かが書かれて綴じられた紙束」という本質的な要素を越えた、本が持つ「それ以上の何か」を指します。僕自身がブックファンタジーにやられており、そもそも特に熱心に本を読まないのに大きな本棚を拵えて多数の本を並べたり、それを活かして個人で図書館や古本屋やブックカフェをやりたいなあと漠然と考えたり、地域の私設児童図書室の連帯保証人になってみたり、その関係で「真夜中の児童図書室とか格好良い」と思って利用者があまりいないのに深夜に開館してみたり、何より本職は工具屋の店員なのに当企画を開催したり、しております。
本屋も工具屋も、小売店には変わりませんが、やはりどちらかというと「本屋」の方が上述の如き多数の「ファンタジー」をもたらしてくれます。(※)
この企画の第一の問いは【何故、ブックファンタジーがあるのに出版不況なのか?】です。良かれ悪かれの面もあるでしょうが「ファンタジー」は商品を売るのに強力な武器でもあるはずです(ブランドがそうであるように)。
又は、何故、本はそうして「ファンタジー」を獲得するのか。出版不況と言われる正体は何なのか。昨今の電子書籍は、その構造を受け継ぐのか。
問いを絞ったつもりが、考える程に、広がります。当シンポジウムでは、徒に抽象化しないよう、実務家に予め一定の答を準備するようお願いしていますが、当然ながら簡単に収束はしないでしょう。なればどうぞお気楽に、眺めにお越し下さいませ。
※ 昨今、工具屋もファンタスティック化しており、その一例としてDIY FACTORYという場所があります。ただ、こちらは結構、儲かっていそう。